信仰心とは?

辞書を引くと「信仰心とは、神仏をあがめる気持ち。その宗教の教えを受けいれ、自己の生涯の中で実践しようとする気持ち」と説明されていますが、日本人の中には「無神論者です」という人も少なからずいます。私も、日頃の行動を見るとそれに近いのかも知れません。父親が亡くなるまで、檀家としてお寺に行ったり墓参りしたことがなく、父がいつも一人で行っていたので、それが当たり前だと思っていました。いまでも正月の神社への初詣では単なる正月の行事と一つとして行っています。結婚式も、妻の希望で教会でしたいと言ったので(もちろん妻もカトリック教徒では、ありません)数回教会に説教を聞きに行き、式を挙げました😄もちろん、私も家内もお葬式は仏式で行う予定です。おそらく、欧米のキリスト教徒や中東やアジアのイスラム教徒から見ると、不思議に思うかも知れませんね。

ところで日本には宗教法人が約18万余りあるそうです。もちろん活動している実態は定かでないらしいですが。歴史由緒な宗教から新興宗教まで色んな宗教があり、日本は面白い国だと思われているかも知れません。

 私は旅行すると、お寺であれ神社であれ宗派に関係なくというか全く意識せずお参りして、いつも決まって家族の健康をお祈りします。もちろん、たまに宝くじを買った時は一等が当たる様にお祈りしますが、そんな都合の良い願いは叶うことありません。😵

でも、この年になると父がやっていたようにお彼岸のお墓参りや檀家としてお寺にお参りする様になりました。そして素直に両親やご先祖様に対して感謝してお参りしています。それが信仰心かどうかは考えたことはありませんが、70歳になり旅立ちの日が近くなるとその様な気持ちになるのかもしれません。それと、墓参りに来ている方を見ていると圧倒的に同じような年配の方が多いようです。

そして、人間はやはり育った環境によって宗教心や習慣が培われ、キリスト教徒・イスラム教徒その他色々な宗教の下に生まれ育てば、人々の知性や心はそれを信じ、その教えを支持するものを引き寄せるのかもしれません。そして、その教えと異なるものに対しては、無視したり拒絶したり、さも無ければ排除しようとする事もあるかも知れません。世界の多くの地域で、宗教の違いによって争いが絶えないのは、どちらが正しいか否かでなく、最初に培われたものによって左右される様な気がしています。

その点、私達の時代の日本人の多くは育った環境がそうであるように、神社・寺院・教会の区別なく受け入れ、今で言う信仰の多様性(ダイバーシティ)を認めているのではないかと思います。島国で、その他の多様性については閉鎖的な日本が例外的に信仰の多様性を認めているのは不思議でならないが、これが一般的な日本人の信仰心?ではないだろうかと、私は思っています✌

 

参照:シニアでも、時には言いたい事がある(高齢者の独り言)       

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